土一揆
1428年、飢饉や疫病による社会不安や、将軍や天皇の代替わりによる混乱の中で、近江国の馬借らが、徳政を求めて( ① )を起こしました。これを( ② )といいます。これに加わった民衆は、土倉・酒屋や寺院などを襲い、借金の証文や質に入れた品物を奪いました。一揆の動きは、近畿地方周辺に広がり、その後も将軍が替わったときなどに繰り返されました。幕府も、一揆の要求におされて、土地の返却や借金の帳消しを認める( ③ )令を度々出すようになりました。
答え
① 一揆 ② 正長の土一揆
③徳政
応仁の乱と下剋上
一方、幕府では、6代将軍足利義教が暗殺された後、守護大名らの争いが続きました。さらに8代将軍( ① )の跡継ぎの問題も結びつき、守護大名の細川氏と( ② )氏が対立し、( ③ )年、京都で( ④ )が始まりました。守護大名を二分して( ⑤ )年余りも戦乱が続き、都は焼け野原になりました。この戦乱で、幕府の力は衰え、地方の武士や民衆は力を伸ばしていきました。
山城では、1485年に武士や農民らが団結して守護大名を追い出し、その後8年間の自治を続けました。これを( ⑥ )一揆といいます。
浄土真宗が盛んだった加賀では、信者が団結し( ⑦ )を起こして、守護大名らを倒し、100年近く自治を続けました。このように下位の者が上位の者に実力で打ち勝ち、地位を奪う風潮は( ⑧ )と呼ばれ、社会全体に広がりました。
⑴ 山城とは、現在のどこですか。
⑵ 加賀とは、現在のどこですか。
答え
① 足利義政 ② 山名 ③ 1467
④ 応仁の乱 ⑤ 10 ⑥ 山城の国
⑦ 一向一揆 ⑧ 下剋上
⑴ 京都府 ⑵ 石川県
戦国大名の支配
16世紀になると、将軍の支配は京都周辺に限られ、地方では、守護大名やその家臣などの中から、実力をのばして領国を独自に支配する( ① )が現れました。( ① )は、一国から数か国を統一して支配するようになり、他の大名との戦いに常に備えるえるため、領国の武士を( ② )にして分団を組織しました。また、大規模な治水やかんがいの工事を行って( ③ )を盛んにし、( ④ )の開発にも力を注いで領国を富ませていきました。室町時代の後半、戦国大名が領国の拡大を求めて戦いを続けた約100年間を特に、( ⑤ )時代といいます。
領国の統一した支配を強めるために、( ⑥ )法とよばれる法律を独自に作る戦国大名もいました。( ⑥ )法には、家臣が勝手に同盟を結ぶことや、武力を使うことを厳しく禁止するなど、下剋上を防ぐための具体的なきまりが定められていました。更に戦国大名は、自らの居所として防備の固い城を築き、城の周辺に家臣を住まわせ、商工業者をよび集めて( ⑦ )町を作りました。交通路も整備され、城下町は軍事や経済の中心として栄えました。
⑴ (下絵を参考に)応仁の乱では、身軽な姿で集団戦に適した「足軽く駆け回るもの」という意味の者が活躍していました。これを何といいましたか。
答え
① 戦国大名 ② 家臣 ③ 農業
④ 鉱山 ⑤ 戦国 ⑥ 分国
⑦ 城下
⑴ 足軽
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