モンゴル帝国の出現
中国の北方のモンゴル高原では、移動しながら生活する( ① )民が暮らしていました。13世紀初めに( ② )が( ① )民の諸部族を統一し、( ③ )帝国を築きました。( ② )とその子孫は、東アジア、西アジア、さらに東ヨーロッパまで攻め入り、ユーラシア大陸をまたぐ広大な地域を支配しました。
中国の北部を治めた5代皇帝の( ④ )は、13世紀後半に都を( ⑤ )に移し、国号を中国風に( ⑥ )と定めました。1279年( ④ )は、( ⑦ )を滅ぼし、( ⑧ )を統一しました。
一方、( ⑥ )は、ベトナムなどの東南アジアや、朝鮮半島、日本にも勢力を広げようとしました。13世紀前半から侵攻を受けた朝鮮半島の( ⑨ )は、都を江華島に移し、約30年にわたって抵抗しましたが、( ⑥ )に服属することになりました。
( ⑥ )は、高麗に続いて、日本も従えようとしていました。
⑴ 上の文章中の⑤は、現在は何といいますか?
⑵ ヨーロッパとアジアを合わせた地域を何といいますか。
答え
① 遊牧 ② チンギス・ハン ③ モンゴル
④ フビライ・ハン ⑤ 大都 ⑥ 元
⑦ 宋 ⑧ 中国 ⑨ 高麗
⑴ 北京 ⑵ ユーラシア
海から押し寄せる元軍 元軍との戦い
13世紀の中頃、元の皇帝( ① )は、高麗に続いて日本も従えようと日本に度々使者を送りました。しかし、執権の( ② )を中心とする幕府がこれを拒否したことから、元と高麗の連合軍が進行してきました。
( ③ )年、元軍は、対馬・壱岐を襲ったのち、九州北部の博多湾に上陸し、集団戦法や火薬を使った武器で幕府軍を苦しめましたが、すぐに撤退しました。これを、( ④ )といいます。
幕府は、再度の侵攻に備え、御家人に命じて、博多湾の沿岸に( ⑤ =石垣)を築かせました。元は、( ⑥ )年にも大軍で攻めてきましたが、幕府軍の抵抗や( ⑤ )などにはばまれて上陸できず、暴風雨による損害を受けて退きました。これを( ⑦ )といいます。
また、この2度にわたる襲来を( ⑧ )といいます。この後も元は日本への遠征を計画しましたが、実行されませんでした。
⑴ 下図を見て答えましょう。
AとBに当てはまる場所の名前を答えましょう。
答え
① フビライ・ハン ② 北条時宗
③ 1274 ④ 文永の役 ⑤ 防塁
⑥ 1281 ⑦ 弘安の役 ⑧ 元寇
⑴ A:対馬 B:壱岐
幕府政治の衰え
元の襲来ののち、幕府は防備を名目に、西国の御家人に対する権限や支配を一層強めました。奉公として、元と戦い、費用を負担した御家人や、勝利を祈願した寺社は、幕府に( ① )を求めましたが、十分な土地は与えられませんでした。
御家人は、新たな領地を得ることができなくなり、領地を分散させないように、( ② )が領地のすべてを一人で受け継ぐようになりました。それでも困窮した御家人の中には、領地を売ったり質に入れたりして失うものが相次ぎました。
そこで幕府は( ③ )を出して、御家人に領地をタダで取り戻させようとしましたが、かえって混乱を招きました。
また、各地で( ④ )と呼ばれる集団が現れ、市や港町などを襲撃するようになりました。御家人はその取り締まりも命じられ負担が大きくなりました。その一方で、北条氏の一族が幕府の政治を独占するようになったため、幕府に対する御家人たちの不満はますます高まっていきました。こうして、幕府と御家人の関係が揺らぎ始め、幕府の力は次第に衰えていきました。
幕府に対して不満を持っていた( ⑤ )天皇は、揺らぎ始めた幕府を倒し、政治の実権を朝廷に取り戻そうと兵を起こしました。この計画は、いったんは失敗して、( ⑤ )天皇は( ⑥ )に追放されましたが、楠木正成などの新興の武士や、有力な御家人の( ⑦ )や新田義貞らを味方につけ、( ⑧ )年に鎌倉幕府を滅ぼしました。
答え
① 恩賞 ② 惣領 ③ 徳政令
④ 悪党 ⑤ 後醍醐 ⑥ 隠岐
⑦ 足利尊氏 ⑧ 1333
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