綱吉と白石の政治
17世紀後半に5代将軍となった(①)は、江戸の湯島に孔子をまつる聖堂を建て、(②)学を重んじて忠孝や礼儀を説く政治を進めました。動物愛護を命じる(③)を出しましたが、違反した造営などで幕府の財政が苦しくなると、質の悪い貨幣を多量に発行したことから、物価が(④)り、人々の生活は苦しくなりました。
続く、6・7代将軍は、②学者の(⑤)を重く用いました。白石は、財政を立て直すために、貨幣の質をもとにもどし、(⑥)での貿易を制限して、金・銀の海外流出をおさえました。
元禄文化
政治の安定や商業の発達を背景に、17世紀末から18世紀はじめにかけて、(⑦)と呼ばれる大阪・京都を中心に、(⑧)たちを担い手とする文化が生まれました。この文化を、このころの年号をとって、(⑨)文化といいます。
・井原西鶴…(⑩)とよばれる小説に、⑧の生活を生き生きと描きました。
・(⑪)…人形浄瑠璃の脚本家として、義理と人情の板挟みに悩む男女を描き、人々を感動させました。
・踊りから演劇に成長し、上方で坂田藤十郎、江戸で市川団十郎などの役者が人気を集めました。…(⑫)
・(⑬)…俳句(俳諧)の芸術性を高め、各地を旅して「おくのほそ道」を書きました。
・俵屋宗達、(⑭)…屏風やまき絵に優美な装飾画を描きました。
・(⑮)…町人の風俗を美しく描く(⑯)を始め、木版画のものは、民衆の人気を集めました。
・中江藤樹…(⑰)学を学びました。
・水戸藩主の徳川光圀…学者を集めて歴史書(⑱)の編さんを始めました。
・関孝和…(⑲)学も発達し、日本の独自の和算が確立され、中国伝来の(⑳)が普及しました。
民衆の暮らし
人々の衣食住にも変化がありました。衣服は、丈夫な木綿が普及し、(㉑)染で美しい模様を染めた絹の小袖も流行しました。食事は、1日3食が普通になり、米を主食に、みそ・醤油で味付けした煮物や魚などのおかずを食べるようになりました。
住居は、石の土台の上に柱を組む建て方に変わり、家が長持ちするようになりました。菜種油を使う(㉒)が広まり、夜も起きていられるようになりました。
年中行事では、地域による違いもありましたが、元旦、ひな祭り、端午の節句、彼岸などが定着していきました。
人々は、寺社に参詣して無病息災などを祈願しましたが、遠方の寺社への参詣の旅は、観光を兼ねた娯楽にもなりました。また、祭りのときには、奉納相撲や村芝居、踊りなどを楽しみました。
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