鎌倉幕府の成立
争乱の中、源頼朝は、( ① )を拠点に政治の仕組みを整えていきました。
平氏の滅亡後に( ② )と対立すると、( ② )を捉えることを理由に、( ③ )年に国ごとに( ④ )を、荘園や公領ごとに( ⑤ )を置くことを朝廷に認めさせました。
その後、頼朝は、( ② )をかくまったことを理由に( ⑥ )氏を滅ぼし、 ( ⑦ )年に朝廷から( ⑧ )に任命され、全国の武士を従える地位につきました。
鎌倉に成立した武士の政府を( ⑨ )といい、幕府が続いた時代を( ⑩ )時代といいます。
幕府を支えたのは、将軍と、将軍に従う武士=( ⑪ )との結びつきでした。
将軍は、( ⑪ )を( ④ )や( ⑤ )に任命して、先祖から引き継いだ領地を保護したり、新たな領地を与えたりしました。⇦( ⑫ )という。
( ⑪ )は、将軍に忠誠を誓い、京都や鎌倉の警備についたり、一族を率いて命がけで戦ったりしました。⇦( ⑬ )という。
このように土地を仲立ちとして主従関係を結ぶ仕組みを( ⑭ )制度といいます。
答え
①鎌倉 ②源義経 ③1185 ④守護
⑤地頭 ⑥奥州藤原 ⑦1192
⑧征夷大将軍 ⑨鎌倉幕府 ⑩鎌倉
⑪御家人 ⑫御恩 ⑬奉公 ⑭封建
北条氏
源頼朝の死後、有力な御家人の間で権力争いが起こると、頼朝の妻の( ① )と、その父の( ② )が幕府の実権を握りました。( ② )が、将軍を補佐する( ③ )の地位に就くと、その後も( ④ )氏の一族が( ③ )を独占するようになりました。
源氏の将軍が3代で絶えた後は、京都から貴族や皇族を( ⑤ )として迎え、それを補佐する北条氏が( ⑥ )をまとめて幕府の政治を動かしました。これを( ⑦ )政治といいます。
一方で、京都の朝廷では、院政が続き、国司を任命していたほか、西国では、荘園の領主である公家や寺社が力を持っていました。朝廷の力を再び強めようとしていた( ⑧ )は、源氏の将軍が絶えると、( ⑨ )年、幕府を倒そうと兵を挙げました。しかし、政子らを中心とする幕府は、東国の御家人を結束させて京都を攻め、上皇の軍を破りました。これを( ⑩ )の乱といいます。幕府は上皇らを( ⑪ )などに追放し、朝廷の監視を強めるために、京都に( ⑫ )を置きました。上皇に味方した公家や西国の武士の土地を没収し、御家人をその土地の( ⑬ )に任命しました。こうして、幕府は西国にも勢力を伸ばし、支配を広げていきました。
西国に進出した御家人と荘園領主との間では、土地や年貢を巡る争いが増えました。( ⑭ )年に、執権の( ⑮ )らは、御家人に関わる裁判を公平に行うための基準や、守護や地頭の役割を、( ⑯ )に定めました。その内容は、公家とは異なる武家社会の慣習や、頼朝以来の裁判の例などに基づく現実的なもので、その後も長く武家政治の手本とされました。
答え
①北条政子 ②北条時政 ③執権 ④北条 ⑤将軍
⑥御家人 ⑦執権 ⑧後鳥羽上皇 ⑨1221
⑩承久 ⑪隠岐 ⑫六波羅探題 ⑬地頭
⑭1232 ⑮北条泰時 ⑯御成敗式目
問題
⑴ 鎌倉幕府の仕組みについて、下のヒントも見ながら図の中のA~Fに当てはまる言葉を答えましょう。
ヒント
B:御家人の統率、軍事・警察
C:一般の政務、財政
D:京都の警護、朝廷の監視E:御家人の統率、軍事・警察
F:土地の管理、年貢の取り立て
⑵ 源頼朝の死後、幕府の実権を握ったのは、何氏ですか。
⑶ ⑵氏は、源氏の将軍が3代で絶えた後、京都から貴族や皇族を迎えました。これらのついた役職はなんですか。また、これを補佐する⑵氏が御家人をまとめていった幕府の政治を何といいますか。
⑷ 承久の乱で、幕府は上皇らをどこに追放しましたか。また、今の何県にあたりますか。
⑸ 幕府は、朝廷の監視を強めるために、京都に何を置きましたか。
⑹ 執権の北条泰時らが御家人に関わる裁判を公平に行うための基準や、守護や地頭の役割を制定したのは、何年ですか。また、それを何といいますか。
答え
⑴ A:執権 B:侍所 C:政所
D:六波羅探題 E:守護 F:地頭
⑵ 北条 ⑶ 将軍、執権政治
⑷ 隠岐、島根県
⑸ 六波羅探題
⑹ 1232年、御成敗式目
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