中学2年 歴史⑯ 定期テスト対策 豊臣秀吉の政治 教育出版 穴埋め問題

太閤検地と刀狩

豊臣秀吉は、支配した地域の土地を、村ごとに厳しく( ① )させました。「ものさし」の長さや、「ます」の大きさを統一し、田畑の面積や土地の良しあしを調べて、その生産量を( ② )で表すようにしました。そして、実際にその土地を耕作している農民を( ③ )とし、名前と調査の結果を検知帳に記録しました。これを( ④ )といいます。

これにより、百姓は( ⑤ )の権利を保障されるかわりに、( ② )に応じた( ⑥ )を納める責任を負い、土地を勝手に離れることが出来なくなりました。一方で、武士は、与えられた領地の( ② )に応じて( ⑦ )を負担し、荘園の領主である( ⑧ )や( ⑨ )などは、もっていた土地の権利を失うことになりました。

また、秀吉は、百姓が一揆をくわだて、年貢をとどこおらせないように、百姓から刀・やりなどの武器を取りあげる( ⑩ )を命じました。さらに、百姓が田畑を捨てて( ⑪ )になることや、武士が百姓や( ⑪ )になることを禁じて、身分の区別をはっきりさせました。武士は( ⑫ )に集められ、その生活を支える( ⑪ )が町に、百姓は( ⑬ )に住むことになりました。
こうして、武士と百姓を区別する( ⑭ )が進められ、武士が強い支配権をふるう近世社会の基礎が築かれました。

答え

①検地 ②石高 ③本百姓
④太閤検地 ⑤耕作 ⑥年貢
⑦軍役 ⑧⑨公家、寺社(順不同)
⑩刀狩 ⑪町人 ⑫城下町
⑬村 ⑭兵農分離

秀吉の外交と朝鮮侵略

秀吉は、( A )が教会領として( ① )会に寄進されていたことを知ると、キリスト教が全国統一の妨げになると考えて、( ② =バテレン)の国外追放を命じました。しかし、布教と貿易は別として、( ③ )の来航は歓迎し、その障害となる( ④ )を取り締まりました。

一方、明やインドなどの征服も計画するようになり、朝鮮に対しては日本への服従と協力を求めました。これを拒否された秀吉は、( ⑤ )年、約15万の大軍を朝鮮に送りました。これを( ⑥ )といいます。
( ⑦ )・小西行長らが率いる日本軍は、首都の( B )などを占領しましたが、( ⑧ )とよばれる民衆の抵抗をはじめ、( ⑨ )の率いる水軍や( ⑩ )の援軍による反撃などで行き詰まりました。秀吉は、( ⑩ )との講和交渉が失敗すると、再び出兵を命じましたが、日本軍は苦戦におちいり、秀吉の病死をきっかけに全軍が引き上げました。これを( ⑪ )といいます。

( ⑫ )年にわたる戦いで、朝鮮の土地は荒れ、多くの人々が命を奪われたり、日本に連れてこられたりました。日本でも、戦費などの重い負担に武士や民衆が苦しみ、大名の不満も高まって、豊臣政権の没落を早めました。

⑴ 上のAとBの場所を下の地図上のア~エから選び記号で答えましょう。

答え

A 長崎 
①イエズス会 ②宣教師 ③南蛮船
④倭寇 ⑤1592 ⑥文禄の役
⑦加藤清正 ⑧義兵 
B 漢城
⑨李舜臣 ⑩明 ⑪慶長の役 ⑫7

⑴ A 長崎:ウ
  B 漢城:ア

確認問題

⑴ 秀吉が百姓に対して行った政策を二つあげましょう。

⑵ 秀吉が兵農分離を進めた目的は何でしょう。

答え

⑴ 太閤検地・刀狩り
⑵ ①戦いのための常備軍を確保し、農業を行う農民も確保するため。(農民が武器を持って戦うことになると農業が手薄になるから)
  ②農民による一揆対策のため。
       ⇩
  これらにより、武士が支配権をふるう近世社会の基礎が築かれた。

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