朱印船貿易と日本町
徳川家康は、日本の商船に海外へ渡ることを許可する( ① )状を与えて、貿易を勧めました。東南アジアの国々に対しても、①をもつ船=( ② )の保護を求めたので、西日本の大名や豪商が安南・( ③ )などに②を送って貿易を行いました。この②貿易が盛んになると、東南アジアの港町に移り住む日本人も増え、各地に( ④ )ができました。
②が訪れる地域では、中国・イギリス・オランダなどの商船も活動し、中国産の( ⑤ )や絹織物、日本の銀、各地の産物を取引して利益をあげました。日本でも、新たにオランダとイギリスが( ⑥ )=( ⑦ )県に商館を開き、貿易を始めました。
禁教と貿易の制限
海外との行き来が活発になると、キリシタンがさらに増えました。家康は、はじめはこれを黙認していましたが、ヨーロッパの植民地となることや、キリシタンが幕府の支配に抵抗することを恐れ、( ⑧ )年、キリスト教を禁止する( ⑨ )令を出して、宣教師を国外へ追放し、キリシタンを弾圧しました。
また、ヨーロッパ船が来航する港を、( ⑩ )と( ⑪ )に制限しました。その後、家光は禁教の強化のため、( ⑫ )船の来航を禁止し、( ⑬ )年には日本人が海外へ渡ることを禁止しました。
島原・天草一揆と鎖国
こうしたなか、キリシタンの多かった( ⑭ )と( ⑮ )では、新たな領主が、飢饉に苦しむ領民に重い年貢を課し、キリシタンを厳しく弾圧しました。そのため、( ⑯ )年、約3万7千人の人々が、( ⑰ )という少年を大将にして一揆をおこし、4か月にわたって幕府や藩の大軍と戦いました。これを( ⑱ )一揆といいます。
これに驚いた幕府は、( ⑲ )でキリシタンを見つけ出し、宗門改めによって、人々が仏教徒であることを寺院に証明させ、キリスト教禁止を徹底しました。また、1639年には、( ⑳ )船の来航を禁止し、次いで、( ㉑ )商館を長崎の( ㉒ )に移しました。
競争に敗れたイギリスも、すでに日本を去っていたので、幕府の貿易相手は( ㉓ )と㉑に限られることになりました。
このように、日本人が海外に渡ることが禁止され、外国との貿易が制限された状態は、後に「( ㉔ )」と呼ばれました。これにより幕府は、長崎での貿易と海外の情報を独占しました。
鎖国への歩み
A~Cに当てはまる言葉を入れましょう。
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