琉球王国と薩摩藩
琉球王国は、豊臣秀吉の朝鮮出兵への協力を避けたこともあり、日本との関係が一時とぎれていました。1609年、薩摩藩の( ① )氏が、江戸幕府の許可を得て琉球を武力で征服し、検地を実施して( ② )を決定しました。薩摩藩は役人を置いて琉球の政治や外交を監督し、年貢として米や( ③ )を納めさせました。
一方で、琉球は独立した国として( ④ )や清に朝貢を続け、貿易を行いました。琉球との独占的な交易を行っていた薩摩藩は、この貿易に間接的に関わり、中国からの輸入品を入手するなど利益を上げました。琉球は幕府に対して、将軍や琉球王国の代替わりごとに江戸へ( ⑤ )を送りました。薩摩藩は、⑤の道具などを中国風にするように強制し、また⑤は中国の服装をしていたので、 これを見た人々には幕府と薩摩藩の権威が琉球・東アジアにまで及んでいることが印象付けられました。
琉球は、薩摩藩の支配を受け入れる一方で、国王を中心とする( ⑥ )制度を整えて、国家体制を確立しました。また、中国な日本との交流を進める中で、琉球独自の文化を発展させ、自立の誇りとしました。
アイヌ民族と松前藩
アイヌ民族は、( ⑦ )や千島列島、樺太、中国にわたる広い地域で、狩りや漁で得た豊かな海産物や毛皮などの交易を行いながら暮らしていました。アイヌの人たちは、( ⑧ )=集落をつくっていましたが、国家は作られませんでした。⑦には、アイヌの人たちが暮らしていましたが、( ⑨ )の住む⑨地も設けられていました。
渡島半島の南部を支配していた蠣崎氏は、秀吉の朝鮮出兵に従って肥前(佐賀県)へ出陣しました。このとき⑦の支配とアイヌの人達との交易を独占する権利を認められました。その後、蠣崎氏は、( ⑩ )氏と改姓し、江戸幕府からも交易の独占を認められました。⑩藩は、領内で米がとれないため、家臣に特定の場所での交易権を与え、交易の利益を収入としました。
⑩藩との交易で、アイヌの人たちは、酒や昆布、ラッコの毛皮などと、( ⑪ )や木綿の着物などを交換しました。
また、⑩藩から不利な交易を強いられたアイヌの人たちは、1669年に( ⑫ )を指導者に団結して立ち上がりました。しかし、⑩藩との戦いに敗れ、さらに厳しく支配されるようになりました。
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